秋といえば、昔はサンマであった。まあ、それは私個人の感想に過ぎないのかもしれない。しかし、いつの間にやらノーベル賞が秋の風物詩となったことは確かだろう。毎年のように日本人が受賞し、世間を賑わせることは、大変喜ばしいことである。
「〇〇大学教授の△△さんがノーベル賞を受賞しました。△△さんは××大学出身なんですね。卒業大学で受賞者数を比較しますと、……。」
てね、毎度ニュースでやっている。でね、私は毎回思う。
「えっ、なんで卒業大学で比較すんのん?」
てね。
「ノーベル賞は研究業績に基づいて授与されるのであって、学歴は関係ないでしょ」
てね。
「学歴しか目に入らないんだなぁ」
ということは理解できるけどね。
というわけで、「ノーベル賞受賞者に自分の学歴コンプレックスルールを勝手に適用する人が多過ぎる問題」について、なぜそうなっているのか、私には正直ちょっとよくわからないのだけれど、とりあえず思い付いたことを反論していく。
前提条件
世間で言う「学歴」また「卒業した大学」とは、正確には「学士課程に入学した大学」を指すようだ。
反論1. 【大前提だよ!】「ノーベル賞受賞」の意味を理解していないよね
学歴は、実績がない人には有用なのだけれど……
確かに、学歴が一定程度有用な場面もある。それは、学歴くらいしか情報がない人間を測るときである。
たとえば、新卒採用。日本の民間企業が何の実績もないと思う学生たちの中から優秀そうな人材を採用したい。その場合、
「東大だし、この子、採用!」
「Fランは不採用だ!」
なんて感じで、合否を決めていることは多い。「学歴差別」とか「学歴フィルター」とか、悪い意味に取られることもあるけれど、これは一種の推論である。
「『偏差値』が高い大学の入試を突破したのだから、優秀なんじゃないの?」
という理屈である。
「ノーベル賞受賞者」はノーベル賞を受賞した者
では、ノーベル賞受賞者はどなたか。簡単なことである。ノーベル賞を受賞された方である。それは、つまり、世界最高の学術賞とされているノーベル賞を受賞された世界最高の頭脳を持つ方々のことだ。
学歴以外に何もない人間が自分の学歴を自慢するのは好きにしたらよかろう。「難関」大学の入試に合格できることが有能な人間であることの証左であり、それができない人間を無能であると信じるのも各人の自由である。
しかし、ノーベル賞受賞者は、「学士(なんちゃら大学)」という経歴であっても、「なんちゃら大学を卒業した人」ではない。世界に変革をもたらした偉人を何者でもない人間とさも同等であるかのように扱うことは、無礼極まりない所業である。ノーベル賞受賞者を勝手に「なんちゃら大学を卒業した人」に変換するべきではない。
反論2. 大学は勉強をするところ
大学生がすべきことは主に勉強である。卒業論文は書いても書かなくても良い場合が多く、書いたとしても、まともな論文になることはまずない。
もちろん、大学院生になったからといって、すぐにまともな論文を書ける人はほとんどいない。大学院では、研究指導を受けながら最低限まともな論文を書くことが求められる。そして、研究者となり、研究に勤しむのである。
身分 | 主なやるべきこと |
---|---|
大学生 | 基礎的な勉強をする・(研究(っぽいことを)する) |
大学院生 | 専門的な勉強をする・研究のやり方を学ぶ・研究する |
研究者 | 研究する・学生を指導する |
繰り返しになるが、ノーベル賞は研究が評価されて授与されるのである。したがって、ノーベル賞受賞者の「学歴」を語ることに意味はない。
反論3. 勉強と研究は別物
研究は才能
もういい加減聞き飽きた話をしよう。
「数学が得意だから理学部数学科に進学したけれど、挫折しましたー」
なんて人は大勢いるのだ。
勉強は、ただ出された問題を解くだけである。勉強ができるかどうかは、本源的な賢さや要領の良さにある程度は依存するものであるが、頭が悪かろうと、努力でどうとでもなる。
一方、研究とは、何か新しい価値を創造することである。中には、誰かが出した問題を解ければ凄いということもあるけれど。フェルマーの最終定理とか。どちらにせよ、名門大学の出身者といえど、まともな研究成果を出せる人は滅多にいない。特にノーベル賞ともなると、才能の世界である。ほぼ全ての人類がどれほど努力をしたところで、100mを9秒台で走れるようになるわけがないのと同じことだ。
大学選びは学力が基準
ほとんどの高校生は、自分の学力の範囲内で良さそうな大学を受験し、合格した中で最も良さそうな大学を進学先に選ぶ。どこの大学に入学するかということは、多くの場合、学力が基準である。
学力と研究能力は、無関係とまで言い切ることはできなくても、おそらくそれほど関係は強くない。どこの大学に入学しようとも、できる人間はできるし、できない人間はできない。エジソンは小学校中退である。したがって、ノーベル賞受賞者の「学歴」を語ることは無意味である。
反論4. 大学院の方が重要
ノーベル賞受賞者に選択された価値
大学全体で見れば、日本一は京都大学でも、分野別に見た場合、そうとも限らない。ほとんどの高校生はそういうことを何も知らないので、何となく良さそうな大学を進学先に選ぶのも無理はない。そうであっても、その選択は、多くの場合、正しい選択である。
しかし、大学生にもなれば、自分のやりたいことが定まり、その分野について、ある程度の知識を蓄えるはずである。もちろん大学を変えるのは手間であるし、指導教官との相性もあったりするので、全員がそれを望むわけではないけれど、まともな大学生であるなら、大学院進学時には、その分野において、より上位の大学に進学することは当然の選択である。
大学の選択には意味がない場合がほとんどでも、大学院の選択には大きな意味を持つ。後にノーベル賞を受賞することになる優秀な学生に選ばれた、という強い意味である。世の中には、知る人ぞ知るエリートコースというものが存在するのだ。
大学院で受ける影響の方が遥かに大きい
加えて、本格的に研究指導を受けるのは大学院からなので、大学よりも大学院で受ける影響の方が遥かに大きい。
したがって、教育という観点から言えば、どこの大学に入学したかよりも、どこの大学で博士号を取得したかの方が余程重要である。
反論5. 大学はたったの4年
いっそ、ものごとをシンプルに考えよう。
標準的な在籍期間は、
学士課程:4年
博士課程:5年
研究者 :40年くらい
である。学部はたったの4年である。したがって、卒業大学は最も低く評価されるべきだ。
反論6. ていうか、学歴なんかどうだって良い
これを言ったらおしまいだが、学歴なんてどうでもよくないか。
「東大のくせに使えない」
とか、よく言うじゃない。東大を出た人間が有能であるとの仮説が本当に正しいのであれば、日本は素晴らしい国になっていたはずである。ということは、学歴なんて関係ない、ということではないのか。
だったら、もう、学歴なんてどうだって良いこと、じゃダメなのかなぁ。それとも、日本って、そんなに良い国だったのかなぁ。
反論7. ノーベル賞は研究が評価されて授与されるのであって、学歴は関係ない
ということである。同じような話をだらだらぐるぐるしていただけのような気がするけれど、つまるところ、これが全てである。
わざわざ自分の恥を公表する必要はない
民間企業の新卒採用を学歴基準にするのも、官僚が東大サークルをつくって東大同士でじゃれあうのも、好きにしたら良かろう。ある限られた条件と目的が合致した場合には、学歴で人を判断することが一定程度は有効な場合もあるのかもしれない。また、それは、何者にもなれなかった負け犬たちにとっては幸福を呼ぶ原資となっているのかもしれない。
しかし、
- 学歴にしかすがるものがないのか、
- 希望の大学に入学できなかったことをいつまでもネチネチ悩んでいるのか、
そんなこと私は知らないが、ノーベル賞受賞者に対して、勝手に自分の学歴コンプレックスルールを当てはめる行為は非常に恥ずかしい&見苦しい。自分が寂しい人間であることをわざわざ公表する必要はないだろう。こだわるのはコーヒーの淹れ方くらいで十分である。
自分が通っていた小学校にノーベル賞受賞者も通っていたことを誇らしく思うことは当然の心理である。しかし、ノーベル賞受賞者が学部に入学したということを基準に大学を比較することに、意味はないんじゃないかな。
最後に
「りんご」を知らない人にりんごの説明をするのは大変
ずっと当たり前のことを書いてきたけれど、それは簡単なようで、むずかしいものだ。果物の「りんご」を知っている人には、「りんご」の3文字、あるいは実物を見せれば簡単に理解してもらえる。しかし、それを知らない人にその説明をするのは骨が折れる。
「りんご」というのは可食性の果実で、皮は赤色で、でも必ずしも赤とも限らず、緑色のりんごもあるのだけれど、それは青りんごと言い、でも赤のりんごも収穫前は緑色だったりして、……。
むずかしい。何から話し始めて、何をどこまで話すべきなのか、むずかしい。せめて「学歴」が重要だと主張する人たちの言い分がわかれば、反論もしやすいのだけれど。
日本大学ランキングでは折衷案を採用
ということで、私は学士号を取得しただけの大学なんて無視して良いと思ってはいるのだけれど、あまり自分の主張を押し付け過ぎるのもどうかと思うので、日本大学ランキングノーベル賞篇では、とにかく受賞者と関係した大学すべてに1点を与えることにした。
日本では、やたらと学歴、特に入学した大学に執着する人が多いので、ノーベル賞も出身大学別にした方が受けは良いのだろうけれど。