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暇潰しにでもなれば

ノーベル文学賞 ボブ・ディランの次は市川海老蔵!?時代はうねるし、私はうなる

 ノーベル賞は昔から何かと論争が絶えません。数ある学術賞の中でノーベル賞が最も注目される、というよりはノーベル賞くらいしか話題にすらならないといった方が正確だと思いますが、その現象は日本のみならず、おそらく世界共通です。ノーベル賞への批判が生まれるのは、そういう意味で名誉なことでしょう。他の学術賞がおかしな選考を行ったとしても、そんなことがあったこと自体、誰も知りませんからね。それだけノーベル賞は別格ということです。

 ブログが誰にも読まれないので、批判もされない私からすれば、実に羨ましい限りです。「この記事は旧版だよ。新版を見てね」と言って、記事の一番上に新版のリンクを貼っているにもかかわらず、誰もクリックしてくれません。中途半端な状態にしている私が悪いのは明らかで、旧版を読むか新版を読むかは各人の自由なのですが、ちょいと残念な気持ちです。果たして、私のブログは読まれているのでしょうか。もう最近はキーボード(筆)が進みません。

概要 文学とオタク

 余計な前置きのせいで何の話かわからなくなってしまうので、そろそろ本題のノーベル文学賞の話に入ります。

 ノーベル賞の創設者であるアルフレッド・ノーベルさんは少年時代に文学と出会い、生涯にわたって広範な文化的関心を寄せていました。ノーベルさんは語学に長け、スウェーデン人ですが、スウェーデンの本だけでなく、多様な国の書物を大量に収集する文学マニアでした。文学好きが高じて、晩年にはフィクション小説まで書いちゃうほどです。

 そんなノーベルさんの文学への深い造詣から、遺言で文学を4番目の賞に指定し、ノーベル文学賞(the Nobel Prize in Literature)が誕生しました。「文学の世界で、理想的な方向に最も優れた作品を完成させた人物に賞を与えよ」というのがノーベルさんが残した言葉です。

選考 スウェーデンアカデミー

 ノーベル文学賞の選考を行うのは、スウェーデンのストックホルムに所在するスウェーデンアカデミーです。

 スウェーデンアカデミーは、スウェーデン語およびスウェーデン文学を奨励することを目的とし、スウェーデンの王グスタフIII世によって1786年に設立されました。アカデミーは、定数18名の会員で組織される独立した文化機関です。会員は、優れたスウェーデンの作家、言語学者、文学者、歴史学者、そして1名の有名な法学者によって構成されています。

問題点:異なる言語を適切に評価できるの?

 国際的な文学賞と聞いて私が真っ先に思い浮かぶのは、小説の原著は様々な言語で出版されているのに、異なる言語を適切に評価できるのか、ということです。

国文学は日本語だし、英文学は英語じゃん?

 自然科学や経済学における研究成果の大半は英語で公刊されます。これはイギリス人の研究者でなくても、日本人であろうが、ドイツ人であろうが、そんなことは関係ありません。昔は、母国語で発表するということもありましたが、現在は英語で統一されています。

 一方、文学では、事情が全く異なります。当たり前の話ですが、日本人の作家が書いた本は日本語で出版されますし、作家がフランス人ならフランス語、中国人なら中国語です。世界的人気作家の村上春樹さんの小説も日本語で出版されたものが各国語に翻訳されて、春樹さんは現在の地位を確立しました。将来的に日本が名実ともにアメリカの植民地にでもなれば話は別ですが、今のところはそんなところです。

 ノーベル文学賞一番の問題は、ここです。科学においては、言語は研究成果を伝達するための手段に過ぎません。便宜的に英語が世界共通語となっただけで、本来なら別に何語で発表したって偉いものは偉いのです。しかし、文学上の功績は言語そのものに大きく依存します。

 具体的な選考方法まで私は知りませんが、普通に考えれば、英語かスウェーデン語か何かに翻訳された著書で選考を行うはずです。それで世界の文豪を正当に評価できるのか、私は、はなはだ疑問です。

ニュアンスまでは翻訳できない

 夏目漱石さんの「吾輩は猫である」の英語版は、'I Am a Cat'です。原著と翻訳版では、作品から受ける印象は一般に異なるものです。もしも'I Am a Cat'という英語の本があったら、「ぼくはねこ」とでも日本語に翻訳されるのではないでしょうか。

 「吾輩は猫である」は1905年の小説なので、現代においては「吾輩」よりも適当な単語があるのかもしれません。しかし、日本語には一人称単数形だけでも数えきれないほどあって、それぞれで受ける印象が全く異なるのに、英語だと全部'I'にされてしまいます。

日英の一人称単数形と印象
一人称単数形 イメージ
I わたくし 改まった表現
わたし 女性なら一般的、男性なら改まった表現
あたし 主に女児が使用。成人女性が使用する場合、話し言葉では許容されるが、書き言葉では幼稚
男性のくだけた表現。あるいは、勝ち気な女性
男性
おら 孫悟空
偉い人
国家なり
拙者
わい おい
わし おじいちゃん

 些末なことと言えばそうなのかもしれませんが、ドラゴンボールで孫悟空が「こんにちは。私は孫悟空です。」と言い始めたら、どう思いますか。私はちょっと嫌です。やっぱり「オッス!オラ悟空!」とかがいいです。

翻訳者の腕次第

 訳本は、作家が魂を込めた著作を生かすも殺すも、翻訳者の腕次第です。

 私はあまり本を読みませんが、それでも洋書の日本語訳版を読むことがたまにあります。私、本当よく思うのですよ。「誤訳多っ!」「日本語が意味不明!」日本語が意味不明なのは論外ですが、誤訳に関しては、英語あるいは英文学のプロでなければ、まぁ許せます。たとえば、医学の専門書を医学者が訳している場合などです。

 しかし、訳者が「〇〇大学文学英文学科教授」という肩書だった場合、「もう辞めちまえ」と思いながら、本を読み進めます。いるのですよね。日本語にも英語にも不自由な英文学科教授が。本当よく教授にまでなれましたよね。自分で名乗って恥ずかしくないのでしょうか。せめて翻訳するときくらいペンネームにしたらどうでしょう。英語が得意な理学研究科数学専攻の大学院生の方が余程うまく訳します。

 ということで、翻訳版では作者の意図や作品の価値を正確に理解することは難しいんじゃないのかなぁ、と私は思っています。

文学賞の国際性

 ノーベルさんは遺言で「スウェーデン人であろうが、ノルウェー人だろうが、そんなの関係ねぇ!人類に最も貢献した人間に賞を与えたまえよ。」と述べています。学術部門については、それで問題なく作用するはずですが、文学賞に関しては、その性質に起因する問題が生じてしまいます。

 ちょっと気になったので、有名どころと思われる賞をいくつかピックアップして、文学賞の国際性について、ちょちょっと調べました。

世界の文学賞
受賞資格(言語、国)
ノーベル文学賞 制限なし
芥川龍之介賞 たぶん日本語(記載なし)
直木三十五賞 たぶん日本語(記載なし)
ブッカー賞 イギリス、アイルランドにおいて原著を英語として出版
ゴンクール賞 フランス語
ピューリッツァー賞
文学部門
アメリカ国籍かつアメリカでアメリカに拠点を置く出版社から原著を出版
フランツ・カフカ賞 少なくとも1作品はチェコ語で出版。その他は制限なし
エルサレム賞 たぶん制限なし(記載なし)

 ノーベル文学賞以外に国際的な賞と言えるのは、フランツ・カフカ賞とエルサレム賞です。フランツ・カフカ賞については、1冊はチェコ語で出版(翻訳)されたことが唯一候補者の条件となっています。したがってチェコ人やチェコ周辺国の作家には有利ですが、村上春樹さんも受賞しており、国際賞に準じます。なお、春樹さんはエルサレム賞も受賞しています。

 実際、世界には数えきれないほどの文学賞があるので、言語や地域を限定した賞の方が圧倒的に多いのではないかとは思いますが、それでもいくつかは国際的な賞があることを思えば、ノーベル文学賞の国際性自体はそこまで大きな問題ではないのかもしれません。

えっ!?歌手もあり……なの?

 「いやぁ、ノーベル文学賞の選考って難しいよね」という話だけで終われたら良かったのですが、2016年10月、大事件が勃発しました。

ボブ…ディ…ラン……?

 スウェーデンアカデミーは、ボブ・ディランというアメリカの歌手の人に2016年のノーベル文学賞を授与すると発表しました。「えっ!?歌手!?」そんな声が世界中を駆け巡りました。受賞理由は「偉大なアメリカの伝統的な歌に現代的な詩的表現を創作した」とのことです。

ボブ・ディランのノーベル講演。音声のみです。

 確かに、歌詞も詩であることには変わりないのかもしれません。しかし、音楽というのは、詞と曲で一対です。よく「歌詞に共感した」なんてことを言う人がいますが、冷静になって歌詞カードを読み返してください。歌詞のみを鑑賞した場合、飛躍のオンパレードで、文章としては非常に不自然なものがほとんどです。曲に惑わされているだけです。

 とは言え、素晴らしい歌詞が一部存在するのもまた事実です。私はボブ・ディランを知りませんが、ボブ・ディランの歌詞は文学的に卓越した表現なのかもしれません。しかし、歌詞だけを切り取って「文学です」というのは、やっぱり違和感があります。

 音楽は音楽じゃないですか。ミシュランガイド三つ星の日本料亭で「クエです」と言われて、アブラボウズが出されたら、私はちょっと嫌です。クエはクエだし、アブラボウズはアブラボウズです。おいしいアブラボウズは、「アブラボウズです」って、自信を持って出してほしいですよ。

ウルフ賞では、ビートルズのポール・マッカートニー氏が受賞

 実は、ノーベル賞前哨戦として有名なイスラエルのウルフ賞でも、似たような出来事がありました。2018年、ビートルズのポール・マッカートニーさんが芸術部門を音楽分野で受賞されました。

 アカデミー賞かグラミー賞か知りませんが、ウルフ賞は学術賞なので、芸能関係の賞とは趣が異なります。したがって、ウルフ賞芸術部門の音楽分野というとクラシックを想像してしまいます。しかし、それはこちらの先入観であって、現代音楽のスーパースターが受賞して、何もおかしなことはありません。

 ノーベル賞にも芸術部門があったら、別に文句はないのですが、文学賞で音楽か。世間が追い付けていないだけで、ノーベル賞は時代の最先端を行くということなのでしょうか。まぁ、そういうことにしておきましょう。

調べたところ、「風に吹かれて」という楽曲がボブ・ディランの代表曲の一つらしいです。私は知りませんが。

なら、次はブロガー

市川の海老蔵さん、かっくいい。

 

 歌手がありなら、もう何でもありありなんじゃないですかね。ノーベル文学賞が時代を先取りするのなら、次に注目すべきは間違いなくブロガーでしょう。ブロガーというと、下に見られがちですが、中には一流の書き手もいます。ブログは小説とは違って、誰でも気軽に始められるので、玉石混淆になっているだけです。

 有名なブロガーというと、……、市川の…海老蔵さん……ですか。では、私は市川の海老蔵さんが将来ノーベル文学賞を受賞することを予想します。通常なら起こり得ない、でも起こらないとも言い切れない、私のノーベル賞受賞者予測です。

 冷静に考えれば、ブログと本の違いはインターネットか紙か、媒体が異なるだけです。音楽に比べたら、よっぽど受賞にふさわしいと言えるのではないでしょうか。私もこのブログでノーベル文学賞を狙います。

芥川賞とか直木賞の方が権威ある感じがする

 私の中で文学賞というと芥川賞と直木賞が思い浮かびます。正直ノーベル文学賞よりも、これらの方がなんとなく権威ある賞という印象を私は感じます。いや、知らんけど。まぁ、少なくとも芥川賞・直木賞の方が私は関心があります。

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